八犬伝物語

  土田杏村訳

日本児童文庫   八犬伝物語
                     土田杏村訳

 はしがき

八犬伝はつけんでん』のほんくはしい名前なまへは、『南総里見なんそうさとみ八犬伝はつけんでん』とまをします。徳川時代とくがはじだい末頃すゑごろきてゐた滝沢馬琴たきざはばきんのかいた有名ゆうめい小説しようせつです。馬琴ばきんはそのほかにも沢山たくさん小説しようせつきましたが、この八犬伝はつけんでんがまづもつと有名ゆうめいだといつてよろしいでせう。馬琴ばきん四十八歳しじゆうはつさいはるにその第一冊目だいゝつさつめし、それからずつとふでをつゞけて七十五才しちじゆうごさいときにおしまひのほんしました。そのあひだ二十八年にじゆうはちねんかゝつてをりますが、これだけなが年月ねんげつ苦心くしんによつて出来上できあがつた小説しようせつめづらしいでせう。だん/\おしまひにちかづくころ馬琴ばきん眼病がんびようがひどくなり、つひにはまつたくの盲目もうもくになつて、自分じぶんをかくことも出来できなくなりましたから、くちでいひむすこよめ筆記ひつきさせて、まだ小説しようせつをつゞけてゐました。全体ぜんたい百六冊ひやくろくさつあり、たいへんのおほきさです。おそらくわたしのこの物語ものがたり十倍なんじゆうばいかあるでせう。そのおほきな小説しようせつはなしを、この一冊いつさつちゞめてかいてみました。
                  土田杏村



目次もくじ

八房やつふさ手柄てがら………………………………………三
伏姫ふせひめ……………………………………………一五
番作ばんさく蟇六ひきろく…………………………………二二
村雨丸むらさめまる銘刀めいとう…………………………二七
円塚山まるづかやま寂寞道人じやくまくどうじん………三四
芳流閣上ほうりゆうかくじようもの………………四六
胡那屋こなや客人きやくじん………………………………五六
小文吾こぶんご難儀なんぎ…………………………………六六
親兵衛しんべえ神隠かみかくし……………………………八〇
庚申塚こうしんづか四犬士けんし…………………………八八
かたな浪人ろうにん…………………………九九
犬山道節いぬやまどうせつ復讐ふくしゆう……………一〇八
へだてたてき………………………………一一三
音音おとね茅屋あばらや…………………………………一二五
嵐山あらしやま名笛めいてき……………………………一三七
馬加大記まくはりだいき…………………………………………一四六
対牛楼たいぎゆうろう女田楽をんなでんがく…………一五三
庚申山こうしんざんにすむ魔物まもの……………………一六七
大角だいかく山猫退治やまねこたいじ…………………一七九
指月院しげついんこも人々ひと/゛\………一九○
相模小僧さがみこぞう勇戦ゆうせん……………………一九五
大樟樹おほくすのき空洞うろ……………………………二〇六
伏姫ふせひめやしなはれた神童しんどう………二一八
白川山しらかはやま虎退治とらたいじ…………………二二七
里見家さとみけ八犬士はつけんし………………………二四一


八犬伝物語
扉裏
装  幀・恩地孝四郎
口絵挿絵・水島爾保布

1

     八房やつふさ手柄てがら

2

太平洋たいへいようながてゐる安房あはくにのとある海岸かいがん、そこへ落人おちうどをのせてよつて一艘いつそう小舟こぶねがある。

3

つてゐる主従しゆじゆう三人さんにん主人しゆじん里見義実さとみよしざねはそのころまだ又太郎またたろう御曹司ごぞうしとよばれてゐたが、ちゝ里見季基さとみすゑもとは、結城氏朝ゆうきうぢともともにそのしゆ鎌倉管領かまくらかんりよう足利持氏あしかゞもちうぢのこしていた子供こども春王はるおう安王やすおうほうじて結城城ゆうきじようこもり、いさぎよいいくさをして、しろちるとき戦死せんしをしたのだ。又太郎義実またたろうよしざねちゝのかたいいひつけで、戦死せんしすることをやめ、日頃ひごろつかへて老臣ろうしん杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもと堀内蔵人貞行ほりうちくらんどさだゆきだけをしたがへて、かこみをりぬけ、ふねつけ、こゝ安房あはくにのがれてたのだ。

4

そのころ安房あはくにには、三人さんにんゐた領主りようしゆ安西氏あんさいうぢ麻呂氏まろうぢ神余氏じんようぢのうち、神余氏じんようぢはその家来けらいのためにほろぼされて、安西景連あんさいかげつら館山たてやましろに、麻呂信時まろのぶとき平館ひらだてしろ領主りようしゆとなつてゐた。里見義実さとみよしざねは、ひとまづ安西景連あんさいかげつらたよつてかうとおもつた。景連かげつらちからつよいが、道理どうりのわからない領主りようしゆである。欲張よくば一方いつぽう麻呂信時まろのぶとき相談さうだんし、よい加減かげん義実よしざねをあしらつて、
「この三日みつかあひだこひつてるものならば、たすけいくさをしよう」
などといふ。安房あはくにかはには、何故なにゆゑこひがすんでゐないのだ。

5

義実よしざねはそれでもりの道具どうぐつて、かはのほとりでりをしてゐる。ふとると、乞食こじきのようななりをしたきたなをとこが、うたをうたひながらふら/\とこちらへやつてた。うたをきけばどうやら自分じぶんのことをいつてゐるようだ。乞食こじき義実よしざねかさのぞんで、
殿とのなにらうとおぼすか」
ふ。
「や、こひをおりでござるか。こひは、安房あはくにかはにすむことが出来できぬとえますわい。いかに里見さとみ御曹司ごぞうしでも、安房あはくにへまゐつては、せるしろたぬとおなじことでございませうぞ」
面白おもしろそうにわらふ。その言葉ことば義実よしざね主従しゆじゆうおどろいて、油断ゆだんせず乞食こじきほうかへすと、乞食こじききゆうにうしろへがり、つちうへ平伏へいふくして、
しからばやはり里見さとみ御曹司ごぞうしでございましたか。かくまをわたくしは、神余光弘じんよみつひろ家来けらい金椀八郎孝吉かなまりはちろうたかよしまをすものでござります」
といふ。さて金椀かなまりののべるはなしは、ぎのようなものであつた。

6

神余光弘じんよみつひろ滝田たきだしろみ、安西あんさい麻呂まろならんで安房あは領主りようしゆであつたが、わるい家来けらい山下定包やましたさだかねおももちひた。定包さだかねは、主人しゆじん光弘みつひろのおそばにつかへてゐるわるいをんな玉梓たまづさ相談そうだんをし、主人しゆじんころしろうばはうとたくらんでゐた。その定包さだかねのわるいたくらみをり、定包さだかねころさうとおもつてゐるほか家来けらい百姓ひやくしようもある。あるとき定包さだかね光弘みつひろにすゝめて鷹狩たかがりにたが、途中とちゆう自分じぶんうま主人しゆじんにすゝめる。うまをめあてに定包さだかねころそうとおもつてゐた忠義ちゆうぎ百姓達ひやくしようたちは、間違まちがへて主人しゆじん光弘みつひろころしてしまつた。定包さだかねはそれをよいことにし、主人しゆじんしろうばつて、自分じぶん滝田たきだ領主りようしゆになり、玉梓たまづさ奥方おくがたにしたのである。

7

金椀かなまりは、そのころされた神余じんよ家来けらいである。金椀かなまり義実よしざねにすゝめて定包さだかねめ、主人しゆじんあだをむくいたいとおもふのである。滝田たきだちかくにはむかし主人しゆじん神余じんよしたつてゐる百姓達ひやくしようたちもあるから、金椀かなまりはいろ/\とはかりごとてゝ、その百姓達ひやくしようたちをあつめる。義実よしざね大将たいしようとなつて、きゆう滝田たきだしろわかれである東条とうじようしろせ、一晩ひとばんのうちにつた。さてぎに定包さだかねこもつてゐる滝田たきだしろせ、これも相当そうとうほねつて、おとしてしまつた。

8

定包さだかね自分じぶん家来けらい裏切うらぎりせられくびられたけれども、奥方おくがた玉梓たまづさりにせられた。玉梓たまづさ金椀かなまりたのんでいのちひをした。
「もとよりわたしつみはございませうが、をんなわたしころしてなんのやくにちませうぞ。ゆるされさへすれば、わたし故郷こきようへかへらうとおもひます」
たのんだけれど、主人しゆじん神余じんよほろぼされたのも、もとはといへばこのをんなはかりごとからであつたとすれば、金椀かなまり玉梓たまづさたすけるになれない。義実よしざねに「ぜひぜひ」とまをげて、玉梓たまづさころすことにした。玉梓たまづさは、
「これほどたのんでもきかれないものならば、ころしてもよ。いづれうらみはらしませう」
と。ものすごい義実よしざね金椀かなまりをにらみながら、うつくしいくびたれた。

9

義実よしざねは、今度こんどのいくさで手柄てがらのあつたものにそれ/゛\、褒美ほうびらさうとする。なんとしても金椀かなまり手柄てがら第一だいいちである。そのうへ金椀かなまり神余じんよ家来けらいといふものゝ、もと/\神余じんよ一族いちぞくでもある。このひとたれよりもあつい褒賞ほうしようあたへようとすると、なにおもつたか金椀かなまりはその褒賞ほうしようけようとしない。いや、それどころか、ふいに腰刀こしがたなをぬいて自分じぶんはらへつきてた。

10

義実よしざね家来けらいおどろいて金椀かなまりのまはりへかけつけ、切腹せつぷくをとゞめようとすると、
「いやこれにはふかいわけがござる。定包さだかねるつもりで、かへつて間違まちがつて主人しゆじん神余じんよころしたものは、この金椀かなまりむかし家来達けらいたちでござつた。そのつみつぐなふためには、この金椀かなまりはこれで切腹せつぷくしなければなりませぬ」
といつて、かたなをなほもふかてるのである。そのとき義実よしざねは、となりの部屋へやから家来けらい一人ひとり子供こどもをつれてさせた。

11

この子供こども金椀かなまりであつた。金椀かなまり自分じぶんいへつかへてゐた一作いつさくといふ仲間ちゆうげんいへをたより、その一作いつさくむすめ夫婦ふうふになつてんでゐたときれたのが、この子供こどもであつた。その金椀かなまりは、主人しゆじんあだをむくいるために方々ほう/゛\をかけまはつてゐたので、一作いつさくいへかへることもない。いま金椀かなまり義実よしざねたすけで定包さだかねほろぼしたことが一作いつさくいへへもきこえたので、そのをつれてたづねてたのだ。
義実よしざね金椀かなまりむかひ、
金椀かなまり、そちの手柄てがらはそのまゝにゆづり、このおほきくなつたとき東条とうじようしろゆづらうとおもふぞ。このには金椀大輔孝徳かなまりだいすけたかのりといふ義実よしざねがつけようとおもふ。そちは安心あんしんしてぬがよい」
といふ。金椀かなまりいきらうとするとき義実よしざねはさきに玉梓たまづさぬときにいつた言葉ことばおもあはせてゐた。

12

滝田たきだしろ義実よしざねほろぼされてもなく、麻呂まろしろ平館ひらだて安西あんさいほろぼされ、いまでは安房あはには滝田たきだ里見義実さとみよしざねと、館山たてやま安西景連あんさいかげつらとだけが領主りようしゆとしてあるようになつた。

13

しばらくいくさもなく、義実よしざね上総椎津かづさしひつ領主りようしゆ息女そくじよ奥方おくがたとしてむかへ、長女ちようじよ伏姫ふせひめみ、ぎのとしをとこ二郎太郎じろたろうんだ。二郎太郎じろたろうは、のち安房守義成あはのかみよしなりとよばれるひとである。

14

伏姫ふせひめうまれてもなく、よるひるいてゐてむづかしいであつた。もう三歳さんさいになるけれど、ものをいはない。そのころ安房あは州崎すざき明神みようじんといふやしろがあつて、そのうしろにえん行者ぎようじや石窟いはやがあつた。義実よしざね奥方おくがたはこの石窟いはや家来けらい参詣さんけいにやつて、伏姫ふせひめ立派りつぱ成人せいじんすることをおねがひしてゐたが、ある伏姫ふせひめ参詣さんけい途中とちゆうで、八十はちじゆうぐらゐの老人ろうじんひ、その老人ろうじんより水晶すいしよう数珠じゆずもらつた。
「このうまれながらに不幸ふこうがつきまとつてゐるから、この数珠じゆずらせよう。この不幸ふこうであるが、その、この数珠じゆずたすけで、里見さとみいへにまた幸福こうふくるであらう」
老人ろうじんはいつてる。えん行者ぎようじやが、この老人ろうじん姿すがたりて出現しゆつげんしたのであらうか。数珠じゆずつのおほきなたまには、ひとひとじんれいちゆうしんこうていといふ立派りつぱなわけのある言葉ことばの、ひとひとつの文字もんじきざまれてゐた。それよりのち伏姫ふせひめ立派りつぱ成人せいじんして、もう十一二歳じゆういちにさいになつたときには、日本につぽん支那しなのむづかしい書物しよもつなどをさへむようになつた。

15

そのころのことである。長狭郡ながさごほり富山とみやまといふやまふもと技平わざへいといふ百姓ひやくしようがゐて、そのいへいぬをす仔犬こいぬんだ。たゞ一匹いつぴきだけうまれた仔犬こいぬであるから、からだもおほきくほねもたくましい。七日なぬかばかりたつたおほかみがはひつてて、その母犬はゝいぬころした。さて技平わざへい野良のら為事しごとるので、ものあたへることなども不便ふべんがちであるけれど、いぬゑた様子ようすもなくすく/\とおほきくなつてく。これはたゞごとではないと、よくてゐると、よる滝田たきだほうから鬼火おにびのようなものがんでて、さてそのあとでとしのいつたたぬき仔犬こいぬのところへはひつて仔犬こいぬちゝをやつてゐるのだ。仔犬こいぬはこのたぬきはゝにして、おほきくそだつてたのである。

16

このことがあたりの評判ひようばんになつてゐた。里見さとみ老臣ろうしん堀内貞行ほりうちさだゆきは、東条とうじようしろまもつてゐて、滝田たきだしろへまゐる途中とちゆうこのはなしき、めづらしいことだとおもひ、義実よしざねまをげた。義実よしざねは、「さうしたつよいぬならば、伏姫ふせひめばんをさせるになによりよからう」と、技平わざへいにそのいぬ献上けんじようさせて、八房やつふさといふをつけ、寵愛ちようあいした。牡丹ぼたんはな毛色けいろうつくしかつた。伏姫ふせひめひるとなくよるとなく、その八房やつふさをそばにいて寵愛ちようあいし、八房やつふさ友達ともだちになりあそびながらおほきくなつてつたのである。

17

館山たてやま城主じようしゆ安西景連あんさいかげつら領地りようちでは、あるとし不作ふさく百姓達ひやくしようたちくるしんだ。里見義実さとみよしざね情深なさけぶか領主りようしゆであつたから、安西あんさい百姓達ひやくしようたちくるしんでゐるのをどくおもひ、こめ五千俵ごせんびよう安西あんさいしてやつた。ところがぎのとしには、安西あんさい領地りようちでは豊作ほうさくであるけれども、里見さとみ領地りようちではたいへんの不作ふさくである。義実よしざね別段べつだんしたこめ催促さいそくするつもりはないけれど、安西あんさい今度こんど多少たしようこめしてくれないものでもないとおもひ、まだ二十歳にじつさいになつたばかりの金椀孝徳かなまりたかのり使者ししやとして、安西あんさいしろへやり、そのことをたのんでると、安西あんさいはこのをりに里見さとみほろぼし安房あは一国いつこく領地りようちにしようといふわるかんがへをてゝ、金椀孝徳かなまりたかのりをそのまゝ俘虜とりこにし、二千余騎にせんよき軍勢ぐんぜいあつめてふいに滝田たきだしろせた。

18

金椀かなまり俘虜とりこになるようなをとこでもないから、安西あんさいしろやぶつてそとのがた。一方いつぽう滝田たきだしろでは、安西あんさいにふいにめられてしろふせ準備じゆんびもなく、第一だいゝち不作ふさくのために兵糧ひようろう支度したく出来できてゐないから、城兵じようへいはたべるものが十分じゆうぶんでなくて、このまゝではしろおとされるよりほかいたかたがない。里見義実さとみよしざねも、もうこのうへ安西あんさい軍勢ぐんぜいなかつてて、にしようと決心けつしんした。

19

よろひをつけた義実よしざねがもうにと覚悟かくごをしたでふとまへると、愛犬あいけん八房やつふさが、これも心配しんぱいそうにそこにうづくまつてゐる。
「この八房やつふさてきくびるものならば、一同いちどうどんなにかよろこばしくおもはうに。いぬながらも、手柄てがら第一だいゝちとして、のぞみのものをあたへようぞ」
冗談じようだんながらにいぬあたまをなでると、いぬ元気げんきそうにあたまをあげ、いまにも敵陣てきじんへかけしそうである。
八房やつふさはなにがのぞみであるぞ。魚肉ぎよにくか。領地りようちか。息女そくじよ伏姫ふせひめかな」
冗談じようだんながらにいぬあたまをなでると、伏姫ふせひめといふときいぬうれしそうにつてゐる。
「さうか。八房やつふさ伏姫ふせひめ婿むこになりたいとまをすか。敵将てきしよう景連かげつらくびつてるものならば、八房やつふさでも伏姫ふせひめ婿むこにしてつかはさう」
義実よしざねがいへば、八房やつふさ一層いつそう元気げんきそうにつてゐる。

20

その義実よしざねは、士卒しそつをあつめ、今宵限こよひかぎりのわかれに、さけもないみづだけの酒盛さかもりをひらいてゐると、ふいにものすごいいきゝ飛んでたものがある。
「や、や、殿との八房やつふさ景連かげつらくびつてましたぞ」
と、おどろきながらあげた家来けらいこゑに、義実よしざねをこらしてれば、いかにも八房やつふさくちにはまみれになつた敵将てきしようくびがくはへられてゐる。そのとき敵陣てきじんほうでもきゆう騒々そう/゛\しくなつて、大将たいしよううしなつた安西あんさいぐんのうろたへるこゑきこえる。義実よしざね軍勢ぐんぜいひきゐてつてで、大将たいしようのない安西あんさいぐん縦横じゆうおうて、大勝利だいしようりめた。


21

    伏姫ふせひめ

22

安西あんさいほろんでれば、安房あは一国いつこく里見さとみのものである。里見さとみいへは、これから万々歳ばん/\ざいといつてもよい。ところがその里見さとみいへにもひとつの難儀なんぎおこつてゐる。今度こんどのいくさに第一だいゝち手柄てがらてたものは、なんといつても八房やつふさであるが、義実よしざね八房やつふさにいつた約束やくそくをどうするであらうか。義実よしざねは、手柄てがらてたいぬ大事だいじおもひ、犬養いぬかひ役人やくにんまでつけて可愛かあいがるけれども、八房やつふさはそれではすこしもうれしそうなかほをしない。機嫌きげんをわるくして、家来けらいたちのにをへないあばれかたをするようになつた。ある家来けらいたちが八房やつふさてゝゐると、八房やつふさはおこつたいきほひで伏姫ふせひめ部屋へやはしみ、ひめたもとあしをからみつかせて、おそろしいうなごゑてゝゐる。義実よしざねもたまりかねてやりし、いぬころさうとすると、ひめはそれをしとゞめ、
「たとひ冗談じようだんにもせよ約束やくそくをしたうへは、それをまもらねば、このうへいくさのをすることも出来できないでございませう。わたしはもうかうした不運ふうんうまれついたものとおもひあきらめ、いぬいつしよにやまのがれませう。父上ちゝうへ母上はゝうへおもひあきらめてくださるように」
ねがつた。義実よしざねはさすがにかへ言葉ことばもない。伏姫ふせひめ人々ひと/゛\かなしみのをあとにして、八房やつふさしたがひ、しづかにしろでる。しろもうしろにえなくなると、八房やつふさ自分じぶんひめをのせ、とりよりもはやはしつて、富山とみやま奥深おくふかけていつた。

23

義実よしざね夫婦ふうふこゝろには、ひめうしなつたこのかなしさがいつまでもきてゐる。富山とみやまおくへは、きこり猟師りようしにもることをかたきんじてしまつた。その富山とみやまには、ひとわたることの出来できないといふ山川やまかはがあつて、そのむかうには、きこり猟師りようしもこれまではひつたことのない秘密ひみつ場所ばしよがある。伏姫ふせひめはそこの石窟いはや場所ばしよさだめ、あけくれおきようをよんでゐた。たゞ大事だいじおもふは、くびにかけた水晶すいしよう数珠じゆずである。八房やつふさもそのおきようくものゝように、行儀ぎようぎよくひめそばすわつてゐた。かうして一年いちねん月日つきひがたつた。ひめ近頃ちかごろ病気びようきになつてゐた。このうへおやにもはず、八房やつふさとも山川やまかはげてなうと決心けつしんしてゐるのである。

24

義実よしざね奥方おくがたおなころ病気びようきになつてゐた。このうへ伏姫ふせひめ一目ひとめつてにたいものとかなしんでゐた。義実よしざねゆめ伏姫ふせひめのようすやそこへかよ山路やまじた。おなときに、東条とうじようしろにゐた堀内貞行ほりうちさだゆきも、殿とのしたがつて富山とみやまゆめた。義実よしざねいまはひそかに伏姫ふせひめたづねてこゝろになつた。富山とみやまふもと大山寺おほやまでら参詣さんけいするといふことにして、貞行さだゆきだけをしたがへ、ひそかに富山とみやまおくつた。

25

はなしまへへかへる。館山たてやま安西あんさいこめりにつた金椀大輔孝徳かなまりだいすけたかのりは、敵城てきじようからあやふくのがたものゝ、安西あんさいじんやぶつて里見さとみしろかへることもならず、すごしてゐるうちに、安西あんさいほろぼされてしまつた。金椀かなまりはおめ/\と里見さとみしろかへることもならず、一作いつさく親戚しんせき百姓ひやくしようたよつて、そこにかくれてゐた。しろかへるについては、お土産みやげなにひと手柄てがらてなければならない。そのときいたのが伏姫ふせひめはなしである。大輔だいすけ鉄砲てつぽうにして、富山とみやま奥深おくふかしのつた。ひとわたれないといふ山川やまかはも、おもひのほかにたやすくわたれた。るとそこには伏姫ふせひめなにものいてゐて、そばにさびしくいぬ八房やつふさがうづくまつてゐる。大輔だいすけ鉄砲てつぽうのねらひをさだめた。
「どーん」

26

やまきりうごかして一発いつぱつ鉄砲てつぽうおとがした。そのけむりのなかから大輔だいすけ飛鳥ひちようのようにかけてて、なほも鉄砲てつぽう五六十ごろくじゆう八房やつふさちたゝいた。八房やつふさあはれにも脚下あしもとんでゐた。さて伏姫ふせひめはと見返みかへつたときに、大輔だいすけおもはずこゑてなければならなかつた。伏姫ふせひめまでが、さきの弾丸たまあまりにたれてえてゐるのだ。大輔だいすけはいろ/\と介抱かいほうしてるけれど、きかへらない。このうへ自分じぶんはらかききつて殿とのへのおびをしようと、かたな脇腹わきばらてようとしたときに、ふいにがしびれてかたなおとした。何人なにびとかのが、かたなひぢかすつたのだ。
大輔だいすけしばらくて。すべてはてゐた」
といつて木陰こかげからたのは、貞行さだゆきしたがへた殿との義実よしざねである。大輔だいすけおもはずそのまへ平伏へいふくした。
大輔だいすけひめ覚悟かくごでゐたことは、こゝにいてあるものでわかるぞ。それにしても可愛かわいそうなのはひめだ」
とおつしやつて、水晶すいしよう数珠じゆずいたゞき、伏姫ふせひめ介抱かいほうするに、伏姫ふせひめわづかいきかへした。伏姫ふせひめはそのくるしいいきなかから、覚悟かくごをしたこと、死後しごはこのまゝ富山とみやまめてもらひたいことなどを遺言ゆいごんして、まもがたなき、はらへぐざとてると、不思議ふしぎにもその瘡口きずぐちからしろけむりのようなものがちのぼつて、ひめくびにかけてゐた数珠じゆずりつゝみ空中くうちゆうへのぼつたとに、数珠じゆずいとはきれ、ちひさなたま地上ちじようちてたけれども、おほきなやつつのたまだけはそのまゝほしのようなひかりをはなつて、いづこへかつてしまつた。義実よしざね主従しゆじゆうはまことに不思議ふしぎこゝろで、それを見送みおくつてゐた。

27

ひめいきえたときに、大輔だいすけはまたもかたなつてはらてようとする。義実よしざねは、
「そのはならぬ。このがそちののきまりをつけよう」
と、かたなりうしろへまはつて、大輔だいすけくびつかとれば、地上ちじようちたものは大輔だいすけかみであつた。

28

義実よしざねははじめ伏姫ふせひめ大輔だいすけつまにするかんがへであつた。いまはその大輔だいすけ伏姫ふせひめのあとをとむらはせようといふのである。かみをきつた大輔だいすけは、殿との慈愛じあい感謝かんしやしつゝ、その丶大法師ちゆだいほうしあらためた。いぬといふ二字にじけたである。丶大法師ちゆだいほうしは、つたやつつのたまをさがしにかけることゝなつた。

29

伏姫ふせひめはその石窟いはやはうむられた。八房やつふさもその近傍きんぼうはうむられた。義実よしざねやまくだ途中とちゆうで、奥方おくがたもまたやまひとこんだといふことをしらせる、いそぎの使つかひにあはなければならなかつた。

30

    番作ばんさく墓六ひきろく

31

結城ゆうきしろちたとき鎌倉管領かまくらかんりよう足利持氏あしかゞもちうぢのこしていた二人ふたり春王はるおう安王やすおうとらへられて、京都きようと将軍しようぐんへおくられた。

32

持氏もちうぢ近習きんじゆに、大塚匠作おほつかしようさく三戍みつもりといふ武士ぶしがゐた。結城ゆうきしろたゝかひではもちろんいさましくてきふせいでゐたけれども、主人しゆじんとしてほうずる春王はるおう安王やすおう捕虜とりこになつたいまは、京都きようとおくられる途中とちゆうでなんとかしてこの二人ふたりうばらうとかんがへた。今年ことし十六じゆうろくになつた番作ばんさく一戍かずもりびよせ、
ちゝはもはや老年ろうねんであるから、いかなる危険きけんをもをかして若君達わかぎみのあとをはうとおもふ。このかたな村雨むらさめといつて、足利家あしかゞつたはつた大事だいじかたなであるが、いま自分じぶんにあるからそちにあづける。主君しゆくんのあとをさがしもとめて、このかたなたてまつり、持氏卿もちうぢきようのあとをてるように。そちのはゝあね亀篠かめざさは、武蔵むさし大塚おほつかひのいへにあづけていたから心配しんぱいはない。この遺言ゆいごんけつしてわすれるな」
といつて春王はるおうたちのあとをつていつた。宿々しゆく/\うばらうとおもふけれども、ばんをしてゐるものにもいさゝかのすきもない。そのうちに京都きようと将軍家しようぐんけから使者ししやて、春王はるおう安王やすおう美濃みのくにくびたれ、くびだけ京都きようとおくられることになつた。いま匠作しようさく苦心くしんもむだとなつた。

33

春王はるおう安王やすおうくびおとされるのを匠作しようさくは、大音だいおんをあげてそのみ、くびつたをとこくびおとした。それをてき武士ぶしたちは、みな匠作しようさくかこんで四方しほうよりりかけ、匠作しようさくあはれにそこでにしてしまつた。そのときまた見物けんぶつなかから、大音だいおんをあげてんでたものがある。それは匠作しようさく番作ばんさくであつた。番作ばんさく春王はるおう安王やすおうくびほかちゝ匠作しようさくくびをもうばひかへして、てきはげしいやいばしたくゞり、大勢おほぜいのがれてつた。

34

番作ばんさく山寺やまでらとまつて、そこで坊主ぼうず姿すがたをした盗賊とうぞくころし、盗賊とうぞくとらへられてゐたをんなたすけた。このをんなちゝは、自分じぶんちゝ匠作しようさくともしたしい友達ともだちであつた。番作ばんさくはそのをんな結婚けつこんし、それから方々ほう/゛\流浪るろうしてあるいた。大塚おほつか名乗なのつててきられることをおそれ、大塚おほつかおほてんつて犬塚いぬづかび、諸方しよほうかくんでゐた。

35

管領かんりよう持氏もちうぢには、春王はるおう安王やすおうほかになほ一人ひとり子供こどものこつてゐた。信濃しなのくにのがれてゐたのを長尾判官昌賢ながをはんがんまさかたいて、諸将しよしよう相談そうだんし、さがしして鎌倉かまくらむかり、関東八州かんとうはつしゆうあるじあふぎ、成氏卿しげうぢきようまをした。そのまた鎌倉かまくらみだれて合戦かつせんはじまり、成氏しげうぢ下総しもふさ滸我こがのが滸我御所こがごしよまをした。滸我御所こがごしよは、むかしちゝ持氏もちうぢについてゐた家来けらいたちをあつせられてゐる。

36

大塚おほつかには、大塚匠作おほつかしようさく亀篠かめざさ匠作しようさくつまいつしよにかくれてゐた。亀篠かめざさ番作ばんさくあねである。けれども番作ばんさくとはちがひ、こゝろきたないをんなであつた。はゝんだのちに、その近傍きんぼうにゐたごろつきのようなをとこ蟇六ひきろく結婚けつこんし、蟇六ひきろく大塚おほつかせい名乗なのつて自分じぶん大塚蟇六おほつかひきろくんでゐた。滸我御所こがごしよむかし家来けらいさがしてゐることをいて、うつたへてた。成氏しげうぢはこんなごろつきをおももちひるわけにはいかないが、ちゝ匠作しようさく手柄てがらおもひ、村長そんちようにしてかたなをさすことをゆるし、ひろ土地とち褒美ほうびあたへた。蟇六ひきろくうち立派りつぱにしひとをたくさんに使つかひ、威張いばつてみたけれども、感心かんしん出来できない夫婦ふうふであるから、たれ一人ひとり爪弾つまはじきしないものはない。

37

諸方しよほう流浪るろうしてゐた忠臣ちゆうしん番作ばんさくは、貧乏びんぼううへ病気びようきとなり、大塚おほつかかへつてた。ればあね亀篠かめざさ蟇六ひきろくなどいふをとこ婿むこむか大塚おほつかせい名乗なのつてゐる。けれども今更いまさらうつたへて褒美ほうびもらかんがへもない。あたりのひと番作ばんさくどくがつて、蟇六ひきろくむかひのいへいてゐるのをさいはひ、そこにまはせてくれた。番作ばんさくはあたりの子供こども手習てならひなどをしへて、そこで月日つきひおくつてゐた。

38

番作夫婦ばんさくふうふたきかは弁才天べんざいてんにおまゐりをして、立派りつぱをとこんだ。けれどもそのまへ何人なんにんをとこなせたあとであつたから、そのをんな着物きものせ、名前なまへ信乃しのとつけて、すべてをんなのようにしてそだげた。またこのおまゐりに途中とちゆうで、可愛かわいらしいいぬみちてられてゐるのをひろつてかへつたが、これも立派りつぱいぬそだつてくから、それに与四郎よしろうといふ名前なまへをつけ、信乃しのいつしよに可愛かあいがつてそだてた。

39

蟇六ひきろくうちでも子供こどもうまれない。仕方しかたがなく、綺麗きれいをんなもらつてそだげた。いぬ幾匹いくひきつてるけれど、みな与四郎よしろうみふせられ、ころされたり片輪かたわになつたりしたので、このうへねこそだてようとおもひ、牡猫をねこ一匹いつぴきもらつて、これに紀二郎きじろうといふをつけ可愛かわいがつてそだてた。番作ばんさく信乃しのはやはりをんな着物きもの、すべてをんなのようにしてそだてられた。けれどもすることがどこまでもいさましく、つよいぬ与四郎よしろうにまたがつてあそんでいる。母親はゝおやはや病気びようきんで、父親ちゝおや二人暮ふたりぐらしになつてゐた。信乃しの成人せいじんして、はや十一歳じゆういつさいになつた。


40

    村雨丸むらさめまる銘刀めいとう

41

番作ばんさく近傍きんぼうに、糠助ぬかすけといふ百姓ひやくしようんでゐる。ある蟇六ひきろくいへ紀二郎猫きじろうねこが、その糠助ぬかすけいへ屋根やねうへ友猫ともねこ喧嘩けんかをしてゐて、ころ/\としたころちると、そこには与四郎犬よしろういぬがゐて紀二郎猫きじろうねこびつき、に紀二郎猫きじろうねこみたふした。さあたいへんだ。日頃ひごろからなかわる番作ばんさく蟇六ひきろくいへであるところへ、こんなことがおこつてれば、蟇六ひきろく下男げなんたちをやつてやかましく番作ばんさくをせめてるのはいふまでもない。糠助ぬかすけなかつていろ/\ほねるがどうにもならない。信乃しの糠助ぬかすけ相談そうだんをして、与四郎犬よしろういぬ蟇六ひきろくいへもんのところヘつれてき、こらしめにぼうちたゝくと、与四郎犬よしろういぬはにげして自分じぶんうちへもかへらず、かへつて蟇六ひきろくいへほうはしんだ。蟇六ひきろくうち下男げなんたちは、「これさいはひ」とぼうやりし、さん/゛\に与四郎犬よしろういぬちのめしきさした。与四郎犬よしろういぬまみれになつて、よろよろとうちかへつてた。

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すると蟇六ひきろくいへから下男げなんて、「与四郎犬よしろういぬ蟇六ひきろくいへの奥座敷おくざしきみ、大事だいじなお役所やくしよ書類しよるいみちらしたから、そのおびには村雨むらさめ銘刀めいとうを管領家かんりようけ献上けんじようせよ」といふのである。番作ばんさくは、かうまで両家りようけなかわるくなつては信乃しの生長せいちようすゑ心配しんぱいになるとおもひ、自分じぶん犠牲ぎせいになるで、はらかたなをつきてた。信乃しのおどろいてちゝびかゝりかたなをもぎらうとすると、番作ばんさくは、
「この村雨丸むらさめまる銘刀めいとうは、おまへ成人せいじんしたのち滸我御所こがごしよ献上けんじようせよ。このかたなはなせば、切尖きつさきからつゆがしたゝり、てきればるほどそのみづがほとばしつてこぶしうへつてる。それゆゑ村雨むらさめがついたのだ。おまへはこれから犬塚信乃戌孝いぬづかしのもりたかとなのるがよい。ちゝねば叔父をぢ蟇六ひきろく村雨むらさめしいし、かつまたおまへ養育よういくせねばむら人達ひとたち承知しようちすまいから、蟇六ひきろく仕方しかたなくおまへ養育よういくすることだらう。そのことは心配しんぱいおよぶまい」
といつて、勇士ゆうし最期さいごちから村雨むらさめ銘刀めいとうはらふかくつきて、いきえた。信乃しのもそのあとをつて切腹せつぷくしようとおもつたが、ふとしたると与四郎犬よしろういぬ重傷じゆうしようれずくるしいうなごゑてゝゐる。
「おまへもおともをさせてやるぞ」
といひながら、村雨むらさめ銘刀めいとう与四郎犬よしろういぬくびおとせば、さつとほとばしる血潮ちしほなかから何物なにものひかるものがした。左手ひだりてけとめてるに、『こう』といふをほりつけた、立派りつぱひとつの白玉しらたまである。信乃しのは、むかしはゝからいたはなしおもした。はゝ弁才天べんざいてん参詣さんけいする途中とちゆうでこの与四郎犬よしろういぬひろつたのだが、そのかへみちでうつゝに神女しんじよからひとつのたまさづけられるとた。あやまつてりはづし、たまいぬのあたりへころちて、それを見失みうしなつてしまつたが、さてはそのときこのいぬたまんでゐたとえる。「それにしてもいまはこのたま不用ふようだ」と、白玉しらたまにはてると、たまはそのまゝはねかへつて自分じぶんふところへはひつた。さてはや切腹せつぷくしようとはだぎかけるに、ひだりうでにいつのにか牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざ出来できてゐたのは、不思議ふしぎなことだ。

43

そこへどや/\と、蟇六夫婦ひきろくふうふ糠助ぬかすけがはひつてた。信乃しの切腹せつぷく出来できない。蟇六ひきろくは、をひ信乃しの面倒めんどうをこれからてやらなければならない。蟇六ひきろくをとこたないし、もらむすめ浜路はまぢおほきくなつたら信乃しの夫婦ふうふにし、いへ村長そんちようやくゆづらうなどとあたりのひとにはふれして、番作ばんさくつくつてゐたなどを自分じぶんのものにんだ。蟇六ひきろくいへ信乃しのよりすこ年上としうへ額蔵がくぞうといふ下男げなんがゐたのを信乃しのいへへつけてやつて、信乃しの面倒めんどう、かたがた信乃しののすることをさぐらせることにした。いぬにはすみうめそばはうむられた。

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額蔵がくぞう正直しようじきをとこである。信乃しのさぐやくにはえらばれたけれども、内心ないしんでは信乃しの同情どうじようしてゐるのだ。ある信乃しのにすゝめて行水ぎようずいをさせてゐると、信乃しのひだりうでにある黒痣くろあざつかつた。
みようなものですな。わたしにもおな黒痣くろあざがありますよ」
背中せなかけるのをると、いかにもおな牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざがある。さて着物きものようとすれば、ふところから白玉しらたまがころがりる。
「それもみようなものですな。わたしにもおなたまがあります」
と、額蔵がくぞうふところからたまるに、いかにもまつたおな白玉しらたまであつて、それには『』といふ一字いちじがほりつけられてゐる。これは額蔵がくぞうはゝ下男げなんにいひつけて、胞衣えなめようとしきゐしたつたときつけたたまだといふ。

45

それから信乃しの額蔵がくぞうとはだいなかよしになり、兄弟きようだい約束やくそくをした。額蔵がくぞうちゝ犬川衛士則任いぬかはゑじのりたふといひ、伊豆北条いずほうじよう立派りつぱ役人やくにんであつた。そのきみをいさめて切腹せつぷくし、はゝ七歳しちさいになつた子供こども荘之助そうのすけをつれて、安房あは里見さとみ家中かちゆうひとがあるのをたよつて途中とちゆう路銀ろぎんられ風雪ふうせつになやまされ、この村長そんちよういへ一夜いちや宿やどもとめてゆるされず、はゝはそのままんでつた。そのとき村長そんちよう蟇六ひきろく荘之助そうのすけ一生いつしよう下男げなんにするつもりでつてそだてたのが、この額蔵がくぞうであつたのだ。額蔵がくぞうは、信乃しの兄弟きようだいになつたから、犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふ名前なまへあらためた。

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けれど表向おもてむきは、やはり額蔵がくぞう信乃しのなかのわるい様子ようすをしてゐる。そのうち幾年いくねんかたつて、百姓ひやくしよう糠助ぬかすけ病気びようきになつた。信乃しのだけはいつも親切しんせつ介抱かいほうをしてやつてゐる。糠助ぬかすけ病気びようきがひどくなり、もうなうとするときなみだうかべて、
「これはあなたにだけおねがひする遺言ゆゐごんです」
といつて、ぎのようなはなしをした。糠助ぬかすけ以前いぜん安房あは州崎すざきんでゐた百姓ひやくしようであるが、親一人おやひとり子一人こひとり貧乏世帯びんぼうしよたいくるしさのあまり殺生せつしようきんぜられてゐるはまあみつてとらへられ死罪しざいにきまつたところを大赦たいしやつみげんぜられ、追放ついほうせられることになつた。子供こどもいて下総しもふさ行徳ぎようとくまでたが、このうへあるいてみち餓死がしをするよりはかはんでなうと、はし欄干らんかんあしをかけたとき通行つうこうひとにとめられた。そのひと成氏殿しげうぢどのつかへてゐる小役人こやくにんであるが、たないからそのまゝ糠助ぬかすけもらつてかうといふ。おやとはかうしてわかれたのである。が、そののちわがは、どうしてそだつてゐるであらうか。この目印めじるしは、みぎ頬先ほゝさき牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざのあることだ。それにこのうまれたのちいはひにたひ料理りようりすると、さかなはらからひかつたたまて、それには『しん』といふがほりつけられてあつたから、そのたままもぶくろなかをさめてある。このさがし、ちゝ糠助ぬかすけのことをしらせてもらひたいものだ。──

47

信乃しのいて おどろいた。この糠助ぬかすけもまた、自分達じぶんたち同志どうしひと相違そういない。糠助ぬかすけはくらい行燈あんどんしたいきをひきとつた。

48

根本ねもといぬめたうめおほきくなつて、八房やつふさうめみのらせた。蟇六ひきろくむすめ浜路はまぢおほきくなつた。浜路はまぢちゝ練馬家ねりまけつかえてゐる立派りつぱ武士ぶしであつたけれど、家庭かていにこみつたわけがあり、おやらさず蟇六ひきろくにやつたのだ。その練馬家ねりまけはこのころ戦争せんそう滅亡めつぼうしたので、浜路はまぢは「多分たぶんまことのちゝ戦死せんししたことであらう」とかなしんでゐる。信乃しの立派りつぱ青年せいねんになつたが、浜路はまぢやしなおやのいふとほり、このひとをつとおもさだめてゐた。

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    円塚山まるづかやま寂寞道人じやくまくどうじん

50

糠助ぬかすけんでとなつたところへは、浪人ろうにん網乾左母二郎あぼしさもじろうといふをとこがはひつた。鎌倉殿かまくらどの第一だいいち近習きんじゆであつたのが浪人ろうにんとなつたので、まだわか殿とのりであつたから、こののちまたされて立身りつしんするひとである。子供こどもたちにきををしへるのは表向おもてむきで、それよりもうたをうたつたりくだらないはなしときしたりするのがきだから、きに亀篠かめざさつて、蟇六ひきろくうち出入でいりするようになつた。

51

左母二郎さもじろうは、浜路はまぢをおよめもらひたいとおもつてゐた。亀篠かめざさ蟇六ひきろくも、さうなれば自分じぶんたちも立身りつしん出来できるので、そのになつて左母二郎さもじろうをもてなした。ところがそのころまたこの役人やくにんかはり、簸上宮六ひかみきゆうろくといふひとて、このひと蟇六ひきろくいへへよばれたが、浜路はまぢをおよめもらひたいとおもつてゐた。左母二郎さもじろうはまだ浪人ろうにんだし、宮六きゆうろくげんにお役人やくにん威張いばつてゐるのだから、今度こんど蟇六夫婦ひきろくふうふ宮六きゆうろくほう浜路はまぢよめにやるになり、「これで立身りつしん手蔓てづる出来できた」とよろこんだ。宮六きゆうろくのところからは、軍木五倍二ぬるでごばいじといふ家来けらいて、権柄けんぺいかさ、「どうあつてもむすめもらはなければならぬ」といふ。蟇六ひきろくねがつたりかなつたりだが、なほ不承知ふしようちのようなかほをしてゐると、「もう今日けふ結納ゆひのうつてもらふつもりだ」といふ。蟇六ひきろくは「やむをない」といふような迷惑顔めいわくがほ承知しようちして、さつそくもらつた結納ゆひのうは、土蔵どぞうへかくした。

52

さてこの結婚けつこんには、信乃しのし、村雨むらさめ銘刀めいとうをまきげなければならぬが、これには左母二郎さもじろう使つかはうとかんがへた。ふいに左母二郎さもじろうをたづねた亀篠かめざさは、
浜路はまぢもらつていたゞくについては、かうしてもらひたい」
といつて相談そうだんするところは、明晩みようばん信乃しの川狩かはがりにさそし、蟇六ひきろくかはちた様子ようすをすれば信乃しのおなじくかはむであらうから、そのひまに蟇六ひきろくかたな信乃しの村雨むらさめ銘刀めいとうとをすりへていてもらひたいといふのだ。

53

相談そうだん出来できた。蟇六ひきろく信乃しのにすゝめて村雨丸むらさめまる滸我御所こがごしよ献上けんじようするために、旅立たびだちさせることになつた。そのまへ蟇六ひきろく信乃しの左母二郎さもじろう川狩かはがりをすることになつた。蟇六ひきろく楫取かこ土太郎どたろうなどいふわるやつやとうてく。さてかは真中まんなかふねて、つきものぼらず、あたりは真暗まつくらになつてゐるときに、蟇六ひきろくあみつようなふりをしてかはんだ。信乃しの土太郎どたろうとが、それをすくひにおなじくかはんだ。蟇六ひきろく土太郎どたろうとは信乃しのおぼれさすつもりで、あしつぱり、ふちほうへひきずりまうとするけれど、大力だいりき水練すいれん信乃しのには、そんなことはなんでもない。土太郎どたろう一町いつちようばかりしも蹴流けなが蟇六ひきろくよこづかみにして、安々やす/\きしへおよぎついた。

54

ふねのこつた左母二郎さもじろうは、信乃しの村雨むらさめ銘刀めいとういてたが、こんな銘刀めいとう蟇六ひきろくにやるのはしいので、自分じぶん腰刀こしがたなにしてしまひ、蟇六ひきろくかたなさやなかへは自分じぶんかたな中味なかみを、信乃しのかたなさやなかへは蟇六ひきろくかたな中味なかみれ、さも村雨むらさめらしく、かはみづすこしづつりかけていた。

55

信乃しのは、かたな中味なかみへられてゐるとは気付きづかない。蟇六ひきろくは、うちかへつてかたないてると、みづしづくがばら/\とるので、いかにも村雨むらさめ銘刀めいとうだとよろこんでゐる。信乃しのは、朝早あさはやつて、滸我御所こがごしよかつた。蟇六ひきろくはそれに額蔵がくぞうをつけてやり、途中とちゆうでばつさりたすようにいひつけた。

56

あとでは、いよ/\浜路はまぢ宮六きゆうろくとの結婚けつこんいはひがはじまる。浜路はまぢはそのはなしおやからかされて、寝耳ねみゝみづおどろいたが、浜路はまぢがどうしても承知しようちしないと、蟇六ひきろくはお役人やくにん宮六きゆうろくまをひらきが出来できないから切腹せつぷくするなどといつてさわてる。浜路はまぢは、いまはもう覚悟かくごで、うはべだけ承知しようちした。蟇六ひきろくうちでは、いはひで大騒おほさわぎである。浜路はまぢは、最後さいごのお化粧けしようをしてゐる。

57

このはなしれきいておこつたのは、左母二郎さもじろうである。「おのれかなら復讐ふくしゆうしてやらう」とかんがへはするものゝ、んでみんなをころしてしまふだけの勇気ゆうきない。
「いつそ、浜路はまぢをぬすみつてやらう」
と、その蟇六ひきろくいへかきのくづれから、左母二郎さもじろうはこつそりとにはしのんだ。

58

築山つきやまのうしろに人影ひとかげがある。それは覚悟かくごをした浜路はまぢであつた。左母二郎さもじろうはうしろから、こつそりつかまへて浜路はまぢがふせぐをおさへ、にはまつからかきうへりうつつて、うまうまと浜路はまぢをぬすみした。

59

これからいはひがはじまらうといふときになつて、浜路はまぢのゐないことにづいた蟇六ひきろくいへは、はちきくづしたようなさわぎになる。んで土太郎どたろうたのんで、左母二郎さもじろうのあとをおつかけさせた。
いまこゝへみちで、見知みしりの加太郎かたろう井太郎ゐたろうが、駕籠賃かごちんのことでなにかいつてゐたが、ぢやああれが左母二郎さもじろうとおじようさんだ。礫川こいしかは本郷坂ほんごうざかけば大丈夫だいじようぶ
と、つぶてのようにんでつた。

60

はなしかはつて、こゝに寂寞道人じやくまくどうじん肩柳けんりゆうといふ不思議ふしぎじゆつをする行者ぎようじやがゐた。まきんでをつけ、そのうへわたるに、あしかない。ひとのことをうらなひ、病気びようき祈祷きとうをするが、そのきゝめがあるといふので愚民ぐみんなかしんじられてゐる。このひとひだりかたさきに一塊ひとかたまりのこぶがあるので、様子ようすは、からだがなゝめまがつたようだ。今日けふ日没にちぼつときに、豊島としま本郷ほんごうのあたり円塚山まるづかやまふもと火定かじようるとふれした。小屋こやて、そのしたおほきなあなり、このなかまきをつけて、肩柳けんりゆうはそのまゝこのあないのちをはらうといふのである。これを火定かじようといつてゐる。肩柳けんりゆうしんじてゐる人達ひとたちが、くものように円塚山まるづかやまあつまつて、肩柳けんりゆうにお賽銭さいせんをまいてゐる。肩柳けんりゆうはふれしたとほりのぎようをして、猛火もうかあななかみ、姿すがたしてつた。人々ひと/゛\肩柳けんりゆう立派りつぱぎようおどろめながら、それ/゛\家うちかへつてく。あとには火定かじようあなのこがちろり/\とえ、円塚山まるづかやまはさびしいよるになつた。

61

そこへ小提灯こちようちん旅駕籠たびかごひとてとまつた。
旦那だんな御約束おやくそく場所ばしよですよ。駕籠賃かごちんいちゞきませうか」
「ばかをいへ。板橋いたばしまでの約束やくそくだらう」
とすぐに喧嘩けんかになつたのは、左母二郎さもじろう駕籠かごかきの加太郎かたろう井太郎ゐたろうとである。駕籠かごかきもしようのわるいごろつきではあるものゝ、さすがに浪人ろうにん左母二郎さもじろうにあつてはかなはない。そのうへ左母二郎さもじろうつは業物わざもの村雨むらさめだ。前後ぜんごからかゝつて二人ふたりのものをりまくつて、くびおとした。そのときまたうしろからちにかゝつてをとこは、いふまでもなく土太郎どたろうだ。左母二郎さもじろう最前さいぜんすこ薄傷うすでをおひ、つか気味ぎみになつてゐるから、まれそうになつてくので、かたないてげる様子ようすをし、土太郎どたろうのすきをいしをなげると、ぱつちりひたひつかつた。そのひるむひまにすさまじくむと、土太郎どたろうは「あつ」といふまゝあふのけざまにたふされた。

62

駕籠かごなか浜路はまぢは、もうげてくこともならない。左母二郎さもじろうは、
「さあ、これからあるくのだ。このおれつてるかたなは、正真正銘しようしんしようめい村雨むらさめで、いまひとつた業物わざものだが、信乃しのつてつたのは贋刀にせがたなだから、さだめし今頃いまごろしばくびにでもなつてるだらう」
といひながら、浜路はまぢ駕籠かごからすと、浜路はまぢはさすがにおどろきながらも、「その村雨むらさめとやらをせてもらひたい」とたのむ。わたかたな右手みぎてり、かへしてるような様子ようすをしながら、
をつとのかたき」
さけんで、ふいに左母二郎さもじろうりかけた。左母二郎さもじろう短刀たんとういて、それをふせぐ。いかに浜路はまぢちからしても、をんなかなしさ浪人ろうにんちからおよぶわけはない。たちま太刀だちになつてちゝしたふかまれた。左母二郎さもじろう村雨むらさめかへし、だん/\よわつて浜路はまぢをにく/\しそうにながめてゐる。浜路はまぢをつと信乃しのがどうなつたかもわからず、かなしくそこにんで運命うんめいを、くるしいいきしたからかたつてゐる。

63

そのときである。ふいに何処どこからともなく手裏剣しゆりけんんでるのと、左母二郎さもじろうのようにたふれるのといつしよであつた。火定かじようあなのあたりへけむりのようにして一人ひとりをとこ姿すがたあらはれた。ればさきほど火定かじようつたはずの寂寞道人じやくまくどうじんだが、さきほどの行者ぎようじや姿すがたとはつてかはり、南蛮鉄なんばんてつ鎖帷子くさりかたびらかため、うへには唐織からおりの着物きもの朱鞘しゆざや太刀たちよこたへて、悠々ゆう/\左母二郎さもじろうほうへやつて姿すがたは、善人ぜんにん悪人あくにんわからないが、一癖ひとくせありそうな面魂つらだましひだ。

64

左母二郎さもじろうから村雨むらさめかたなうばり、火定かじようやいばかへしてながめながら、
いたにもまさつた立派りつぱかたなだ。これがにはひつたからには、かたきをつもやがてのこと」
感心かんしんしてゐる。村雨むらさめこしみ、さて浜路はまぢほうせて、もういきえようとしてゐる浜路はまぢたすおこす。浜路はまぢはぱつちりをあけて、肩柳けんりゆうかほた。
のこらずはなしはそこでいた。かくいふ自分じぶん犬山入道道策いぬやまにゆうどうどうさく一子いつし犬山道節忠与いぬやまどうせつたゞともであるが、そちはちゝはなしいてゐた母違はゝちがひのいもうとである。うちにこみつたわけがあり、そちはひとにやられたが、父入道ちゝにゆうどう池袋いけぶくろたゝかひで練馬家ねりまけ滅亡めつぼうとともににした。そのちゝかたきらうと、自分じぶんうちつたはる火遁かとんじゆつもちひ、愚民ぐみんどもをあつめて火定かじようるとあざむき、賽銭さいせんるも軍用金ぐんようきんにあてるため、またこの村雨むらさめ銘刀めいとううへは、これをもつててきて」
といふをいて、浜路はまぢおどろく。肩柳けんりゆう姿すがたをかくすのは、犬山いぬやまいへつたはつた火遁かとんじゆつといふものであつたのだ。浜路はまぢはこのぎはに、まことのあに道節どうせつつたのは不思議ふしぎだが、信乃しの難儀なんぎすくふには、あにたのんでこのかたな信乃しのわたしてもらふよりほかはない。
兄上あにうへいもうと最期さいごたのみには、これより滸我こがき、村雨丸むらさめまるをつと信乃しのわたしてはくださらぬか」
「いやそれはならぬ。このがかたきをつまでは、この銘刀めいとう手放てばなすわけにくまい。かたきをてばようのないかたな犬塚信乃いぬつかしのとやらにめぐりあつたときかならずそれを手渡てわたすであらう」

65

いもうと必死ひつしねがひも、さすがにいまかれなかつた。浜路はまぢあはれにいきたえた。

66

道節どうせついもうと不便ふびんおもひながらも、いきたえたうへいたかたもなく、村雨むらさめこしんで、そこをらうとすると、
曲者くせものて!」
とうしろからんで木陰こかげひとがある。

67

    芳流閣上ほうりゆうかくもの

68

信乃しの額蔵がくぞうとは滸我こがむかつた。額蔵がくぞうはみち/\蟇六ひきろくわる相談そうだん信乃しのにはなし、自分じぶん信乃しのころやくにつけてよこしたことや、浜路はまぢ危険きけんであることやをかたつて、今後こんご相談そうだんをした。それにしても心配しんぱいなのは、蟇六ひきろくいへのこされた浜路はまぢうへであるゆゑ、額蔵がくぞう